完全マイウェイ!

おもろが過ぎるよジャニーズ集団。

昨日のあさイチと自分について、あと中島健人さんのSexy時代について考えてみた。

ふとした時に思い出す時がある。学校でいたずらされた時の言葉とか、それを先生に相談したら全然解決しなかったこととか、泣いても喚いても暴れてもダメだったのにちょっとしたことで事態が翻ったこととか。世の中なんて基本理不尽だ。それはずーーっと昔から私はなんとなーく理解していた。それでも誰かがいるかも、誰かそうじゃない人がいるかも、と何故か希望を捨てなかった。

 

私の思考回路は昔からあんまり変わっていなくて、というか過去の経験によってねじまがったまま矯正されていないところがあって、とにかく自分のことを矮小的に話すことがある。それは相手の発言を無効化したり、相手を突き放すような傷つける言葉にもなり得るんだけれど、私の過去の世界はそうすることが当たり前で、私はそうでないと痛めつけられると思っている節があった。それは本当に真摯にきちんと人とコミュニケーションを取るようになった18歳くらいに気がついたことで、正直遅すぎる発見だった。

 

時々こういうの思い出すと全部他人のせいにしている気がして、常々自分が嫌になるんだけど、でも環境に順応しようと思うとそうせざる得なかった部分はあった。みんな全部他人が悪いとは思っていなかったし、私のせいでもあるけど、ただあの環境を変えるには第三者の介入が必要だっただけで、それを正しく第三者が考えてくれなかったことは原因にあるだろうなって。

 

今日のあさイチを見て思ったことは山ほどあるんだけど、話し始めると自分も悪かったのかもしれないみたいな文章しか書けなくなる。人にどう思われるのか怖いとか、何か自分の意に反することを書けば書くほど、心の中の私がずーっと傷ついたままでいること思い出して、でも忘れちゃいけない気もして、いやこれは天罰なのかもとか、私が悪い人間だからこうなったとか、それはもう様々これを書きながら思っていて、なんっていうか自分でさえも自分を傷つけているのに、他人にまで傷つけられ続けるのは正直そらしんどいよって言いたいんだ。

 

当初はやっと眠っても目を覚ませば思い出したし、程度で言えばたいしたことないと他人や自分が思うほど、自分はどんどん何だか追い詰められていて、傷ついていることを他人に測られるのが嫌だ。それで自分も測り始めるのが嫌だ。もう自分がどうやっていつも過ごしていたかもわからなくなるくらい、自分を見失っていることにも嫌だ。そういう感じの人生でいる。

 

最近の私はやっと自分は怒っているんだと思えることが出来たり、とにかく昔から自分の感情を読み取ることも他人の感情を察することも下手ではあったけど、こんなに単純な感情が何故今まで理解できなかったのかって真剣に笑ってしまうこともある。そうずっと自分が怒っていることに気付けなかった、自分で。今もそうだし、今も突然人生を諦めたくなるし、でも突然自分が愛しくなったりもするし、忙しい。そういう毎日だ。

 

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中島健人さんのいうSexy時代について、考えてみた。というか、彼の話していることは部分的ではあるが哲学的で、伝えようとしていることは何となく分かるような気がする。全部分かるわけじゃないし、彼の意図しないところもあるかもしれないけど、私があの話で感じたことを書いてみようかなと思う。

 

第一夜に語られた、Sexy時代について。彼の「Sexyとは人間の根源であり、ナチュラルを体現している言葉」というのは、私は「性や人間活動(生活)におけることについて(好奇心や探究心、知的欲求など恋愛や友情など様々含めて)」話しているのかなと思った。性というものを超越することもある。個として備わるもの、個性がSexyという風にも捉えられるのではないかなと。ナチュラル=Sexy、ピュア=ナチュラル、ピュア=Sexyという方程式は、実に単純で自分の知的欲求または恋愛や友情その他の生活における中で自身の思う素直な選択することをSexyだと捉えられることもできそうな気がする…。自分で人生や色々な物事を選択していくうちに、自分の魅力を体現している、こういうことをSexyと言っている…または捉えられると言ってるのかなと。

 

Sexy時代の法について、もうこれ最初はSexy時代の法…?ってなりましたが(笑)Sexy時代が上記のような"素直な人間による自由な選択で魅力を最大限体現できる世界"であるならば、法(ここでは偏見と捉えています)や罰はないというのは何となく理解できるかなって気がします。自由な選択ができるということは、多種多様な選択が尊重されているということなのかなぁとも思うので、そうなると偏見はないのかなと…(わからんけど)。だけど罪(という失敗)は犯すことがあるわけで、そういった場合にでてくるのがイチジクなんですね…(笑)

 

イチジクを身につけることがどういうことなのか、考えてみたんですけど…私は自分の失敗を認めることなのかなと思いました。だからSexyとは何かを見つめ直すと語っているのかなと…。失敗を認めることで、その失敗と向き合い、自分のSexy(自分の素直な感情など)を取り戻すのかなぁと。イチジクは恥じらいを隠す為のウェポンというのは、失敗してしまったことへの劣等感のことで、そのあと「失敗は成功へのプロセス。イチジクを身につけることは恥ずかしいことではない」と語っているのは、失敗やそれによる劣等感は正しい反応で、それが恥ずかしいことや間違っていることだというわけではない、失敗をして向き合い立ち直ることで復帰することは誰しも平等にあることであると言ってるのかなと。

 

イチジクの出現は、聖書からの引用にも思います。イチジクの葉や木とか聖書に出てくるモチーフだった覚えがあるので、旧約や新約共に。こうしてみると中島健人大先生の教養の高さが伺えて、いや~なんていうかすごい。

 

第二夜のSexy常用語なんかは分かりやすいですよね、まあSexy(上記)を見つけたのは中島大先生本人だけじゃない、見つけたり気付いたりしている人はいるし、意識していないだけで身近にあるということを言ってるんだと思います。だから自分で探してほしいのかなって。Sexyの著作権は僕が持っているわけではないのも当てはまるかな。

 

なんか自分で言っててわけわかんなくなったんだけど、これをぴゃぴゃーっと話せてしまう中島健人大先生ってマジ何者なの…未来からきたんですか…。とにかく私はこういう風に捉えたよってお話(笑)多様性や否定のない、誰にとってもある程度肯定的な世界で弱者を助け、随所に愛を持って行動できるのがSexy時代なのかなって思いました。違ってたらケンティー大先生ごめんなさい!門下生やり直します!